Š¯‚ð—ð”C [’©“ú], http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20050921016.html, http://www.asahi.com/obituaries/update/0921/001.html, http://www.asahi.com/paper/editorial20050918.html, http://www.asahi.com/paper/column20050918.html. 『後藤田正晴二十世紀の総括』 生産性出版、1999年。 isbn 4820116614。 内田健三、佐々木毅、早野透による全7回のインタビュー集 『後藤田正晴の目』 朝日新聞社、2000年。 isbn 4022575298。 『後藤田正晴日本への遺言』 毎日新聞社、2005a。 isbn 4620317446。 Copyright (c) J-CAST, Inc. 2004-2020. 後藤田正晴 日本国憲法施行50年にあたり、異なる立場で戦後政治に携わってきた3氏に憲法観を聞いた。 菅直人氏(民主党代表、前厚相)は基本的に護憲の立場だが、「解釈の面で『国民主権』が実現されていない」と告発する。 Copyright © CyberAgent, Inc. All Rights Reserved. これを軌道修正できる後藤田のような有為な政治家がいない今の政治状況を、私は非常に不幸なことだと思うのです。 いうまでもなく、後藤田正晴は「護憲」の政治家でした。 警察庁長官を務めたのち、政界に進出し、内閣官房長官を長く務めました。 安倍政権は依然として憲法改正に力を入れている。ところが反対する人が自民党内にも少しいる。その代表格が、自民党の幹事長を務めた古賀誠さんだ。2002年から12年まで日本遺族会の会長も務めた。すでに政界は引退したが、折に触れ「平和憲法は守るべし」というような発言をしている。, 遺族会の会長だったと言えば、何となく「大東亜戦争肯定論者」のように思われがち。それがどうして『憲法九条は世界遺産』(かもがわ出版)などという本を出しているのか。実際に読んでみて、理由があることが分かった。, まず、古賀さんの生い立ち。1940(昭和16)年、福岡県の田舎で生まれた。父親はほどなく出征、帰らぬ人となった。「お父さん」と呼んだことのない人生。母親は古賀さんと姉を育てるために近隣の町村を回って行商をしていた。母親の寝ている姿を見たことがなかったという。近所にも同じような戦争未亡人がたくさんいた。古賀さんが政治家を志した理由は、「再び戦争をくり返してはならない」という思いからだ。きれいごとのようだが、これが率直な気持ちだったと振り返っている。, 日大商学部時代は、自民党参議院議員の書生になった。4年間、靴磨きから庭掃除まで何でもやり、代わりに学費を出してもらう。秘書を経て、国政を目指した。地盤もカンバンもないから最初の選挙では泡沫に近い扱い。ところがふたを開けると、わずか4500票差の次点だった。, 支えてくれたのは、母親と同じ戦争未亡人や、戦争で家族を失った人たちだった。二度目の選挙で当選。国政に出させてもらった恩返しは、戦争未亡人を再び生み出さない国を作り上げることだと誓う。「私の一番大事な仕事は、わが国が永久に平和であるために努力すること」。それこそが「私の責務」「原点」だと言い切る。, ちなみに母親は、古賀さんが当選してからもしばらく行商を続けていた。足腰が弱った後は自宅で小さな乾物店を開いて82歳で亡くなるまで店番をしていたという。, こうした人生行路の基軸を知ると、確かに「平和憲法」への思いが、並々ならぬものであると実感できる。, 憲法九条には、多数の戦死者、遺族の血と汗と涙が込められている、そう簡単に、この憲法九条を改正する議論をやってもらっては困るし、やるべきではない、と思っている。さらに平和憲法は、国際的には、あの戦争で世界の国々に多大な損害を与えた日本が、そのことに対するお詫びをしているという意味あいをも持っているとも考えている。, つまり平和憲法は、国内向けにも海外向けにも、極めて意義のあるメッセージ性を持っているというのだ。, 古賀さんの世代では、九条を守りましょうという理想を持つのに、自民党の中でも特別な努力は要らなかったという。古賀さんが属し、現在も名誉会長を務める宏池会という政策集団は、そもそも「九条を守ろうという志」を持っていた。「宮沢喜一さんも護憲論者、大平正芳さんも護憲論者、田中六助さんも護憲論者」。派閥は違ったが、「後藤田正晴さんも全く同じ立場でいてくれました」。だから、自民党の中で戦争を知っている世代、戦争を経験して戦後を生きてきた人たちが政権の中枢にあるときは、憲法問題についての議論は主たる政治課題にはなっていなかった。, 安倍政権は、憲法改正を大きな政治課題に掲げ、着々と布石を打ってきた。古賀さんは語る。, 自民党内でこうした持論を話すと、若手の国会議員らからすぐに反論される。「古賀さんの言うのは非現実的」「それで日本の安全平和は大丈夫なのか」「隣の国を見てください。北朝鮮が毎日のように、ミサイルや核兵器の実験をしているじゃないですか」「憲法九条を守るだけで日本の平和が国民に約束できるのでしょうか」。, 古賀さんの答えは、「理想を実現するために政治はある」。自民党の国会議員にそう訴えるのだが、残念ながら支持者は少ない。「まだ数人」。, ほとんど一匹狼のような超少数派だが、存在感はある。一つには「幹事長」という党の要職を占めた経歴によるものだが、「日本遺族会」の会長を務めていたことも大きい。自民党の有力な支持母体の一つ、とされる団体だ。何よりも古賀さん自身、父親をフィリピンのレイテ島で失っている。, 子どもころから、記憶には存在しなかった父親。戦地を訪ねたこともなかった。遺族会の会長になった翌年の2003年、野中広務氏に一喝された。「日本遺族会の会長が自分の父親の死んだ戦地にも行かずに、遺族の気持ちがわかるのか。英霊の魂を君はどうやって理解するのか」。, そこで、野中氏に付き添われ、レイテ島のジャングルに向かう。簡単な祭壇をつくり、父親の故郷の地酒や米をそなえ、死んだ母親の遺影を飾ったとたんにスコールになった。野中氏が慰めてくれた。, 憲法問題と同時に、古賀さんが大きなテーマにしてきたのが靖国神社の問題だ。本書では「靖国神社のA級戦犯は分祀を」という見出しで一章割いている。, 古賀さんはある時、故郷から母親を呼び寄せ、手を引いて靖国神社に行った。せっかく母親が来たのだからと、正式に社殿の中に上がり、祝詞をあげる「昇殿参拝」を準備した。ところが、母親は「ここは赤紙を出した東条さんも一緒やろ」と言って上がらなかった。社殿の前の「社頭参拝」で済ませた。古賀さんは「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の会長をしていたこともあるが、それ以来、「社頭参拝」にとどめているという。母親の気持ちが痛いほどわかったからだ。, 古賀さんはA級戦犯の分祀を強く求め続けてきた。昭和天皇は合祀が判明して以来、靖国に足を向けていない。いまの上皇も同じだ。古賀さんは言う。, 古賀さんは、「どこにでも出て、私は自分の考えを伝えることが使命であります」と胸を張る。「たとえ一人であっても、私が歩いてきた道と、それが生み出した『憲法九条は世界遺産』という主張に共鳴していただければ、それに優る幸せはありません」と語っている。, 本書は2018年に神戸市で行われた後援会の話をまとめたもの。活字も大きく短時間で読むことができる。この種の本にしては珍しく増刷を重ねている。. All rights reserved.

後藤田 正純(ごとうだ まさずみ、1969年 8月5日 - )は、日本の政治家。 自由民主党所属の衆議院議員(7期)、自由民主党副幹事長。. 安倍政権は依然として憲法改正に力を入れている。ところが反対する人が自民党内にも少しいる。その代表格が、自民党の幹事長を務めた古賀誠さんだ。2002年から12年まで日本遺族会の会長も務めた。すでに政界は引退したが、折に触れ「平和憲法は守るべし」というような発言をしている。 一昨日、後藤田正晴氏の追悼原稿を書いた。来月、雑誌『中央公論』「時評2005」欄に掲載されることになる。後藤田氏に仕えた佐々淳行氏が後年、明らかにした官僚の心得、「後藤田五戒」は、次のようなものである。 ① 省益を忘れ、国益を思え。

内閣府副大臣、自民党徳島県連会長を歴任した。. 後藤田正晴(1914年~2005年)は「護憲」の政治家としてしられる。 警察庁長官を務めたのち、政界に進出し、内閣官房長官を長く務めた。 93年の宮澤喜一内閣では副総理、晩年は首相にも擬せられた。 後藤田 正晴(ごとうだ まさはる、1914年8月9日 - 2005年9月19日)は、日本の内務・建設・警察・防衛・自治官僚、政治家。, 「必ずや成し遂げていく決意だ。新しい体制で憲法改正に向けた議論を力強く推進していく」, 9月11日、第4次安倍改造内閣発足後初の記者会見で、安倍晋三首相は「憲法改正」への意欲をこう強調しました。, 安倍首相は「2020年の改正憲法施行」を、繰り返し主張しています。しかし、憲法を改正するということ自体が目的化し、なぜいま改憲なのか、この国をどの方向に持っていこうとするのか、その土台から論議を進めていく姿勢は全く見られません。とにかく衆参両院の3分の2の同意を取り付けて、何が何でも在任中に「改正」を実現させたい。首相としてのレガシーを残したいという思いだけで、憲法改正を行おうとしているように見えます。, そういった首相の姿勢を見るたびに、私はもし後藤田正晴が存命ならば、と思わずにはいられません。「こんなことしとったら、日本は壊れてしまうわな」という彼がよく口にした言葉を最近特に思い出します。保守の中のもっとも良識的な姿勢で日本を見続けてきた後藤田なら「改憲は時期尚早」と首相を窘(たしな)めたのではないかと私は思うのです。, ところが今の自民党には、後藤田のような「重石」はいなくなってしまったようです。私自身はいわゆる護憲派ではなく、現行憲法には時代に合わなくなってきたさまざまな点があり、いずれ改憲は必要という立場です。しかし、改憲には歴史への深い考察がまず必要です。そこを一切飛ばした、安倍政権の現在のスケジュール闘争のようなやり方はいかにも拙速です。これを軌道修正できる後藤田のような有為な政治家がいない今の政治状況を、私は非常に不幸なことだと思うのです。, 警察庁長官を務めたのち、政界に進出し、内閣官房長官を長く務めました。93年の宮澤喜一内閣では副総理、晩年は首相にも擬せられました。旧内務省出身の官僚というイメージとは異なる柔軟な思想の持ち主で、自民党のリベラル派とも言うべき体質を持っていました。のちに宮澤内閣で、PKOへの自衛隊出動にも一定の歯止めをかけて、軍事を政治のコントロール下に置くことを実現させています。, 〈後藤田には後藤田なりの戦争観があった。戦争のあの愚劣さは、決してくり返してはならない、もう二度とあのような体験はしたくない、との覚悟を固めていた。後藤田と会話を交わすと、そうした覚悟がはっきりみてとれる〉, 取材中、彼は「わしの眼の黒いうちは憲法改正は許さない」との信念を語り、「軍事が政治のコントロールを踏み外して暴走を続けるなら、とんでもない事態になる」と何度も口にしました。, 実際、中曽根康弘内閣の官房長官時代、後藤田は内閣の軍事への傾斜を窘めるスタンスをとり、その種の発言を続けました。, 戦争は人を狂わせる――後藤田はその想いを台湾で強くしたのではないでしょうか。彼が護憲の立場を貫いたのには、「もうあんな戦争は二度とゴメンだ」という戦場に赴いた世代の「共通の感情」が土台にあったからと、その時実感しました。, 太平洋戦争中、大本営情報参謀として米軍の作戦を次々と予測的中させたことで名を馳せ、戦後は自衛隊統幕情報室長を務めた堀栄三という人がいます。彼は大正2年生まれで後藤田の1つ上です。私は堀とも非常に親しくお付き合いをさせてもらいました。後藤田と同じく私が最も尊敬する人物の1人です。, ある時、私の出版記念パーティーに後藤田が来て挨拶をしました。堀も来ており、2人はしばらく話し込んでいました。戦後、後藤田が自治庁長官官房長を務めていた頃、堀は初代駐西ドイツ大使館防衛駐在官でした。ある会議で一緒になって以来の旧知の間柄だそうです。, 「僕は軍人だから憲法改正と言われたら、改正することに反対しない。しかし、戦前の軍隊のようになるのでは意味がない」, もし日本が再軍備をするのならば、先の戦争について猛勉強しなければならない。もう一度同じことを繰り返さないよう徹底的に検証せずして再軍備はありえない。, むしろ憲法改正より重要なことがある。日本が国際社会で生きぬくために、ライオンではなくウサギの戦法をとるべきだと言いました。巨大な牙や爪にたよるのではなく、情報収集にたけた耳を武器とせよ。つねに耳を研ぎ澄ませ、かすかな情報もおろそかにしない。そしてその情報を正確に分析し、事態に対応する。, 権力の内側から見た50年【戦後日本】後藤田正晴 21世紀の糧として | 七梟のブログ. (回答先: 後藤田正晴氏が死去 副総理や官房長官を歴任 [朝日] 投稿者 ファントムランチ 日時 2005 年 9 月 21 日 11:37:35) 後藤田正晴氏の訃報記事を見て、護憲といえば無視を決め込む大「朝日新聞」 ― 寂しいなという気がする今日この頃。



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