1923年(大正12年)9月1日の関東大震災時、連合艦隊(司令長官竹下勇大将、旗艦「長門」)は大連沖合で演習中であった[26]。連合艦隊は演習を中止して、救援物資を東京に運ぶ[27]。連合艦隊参謀として長門に乗艦していた福留繁大尉は「長門は最大速力26ノット(公称22ノット)で東京湾に急行したところ、イギリス東洋艦隊旗艦の巡洋艦プリマスに追跡され、本当の速力を見破られた」と回想している[28]。なお、イギリス中国艦隊所属の軽巡洋艦ディスパッチの航海日誌に「11.13am: Fired salute to Japanese Admiral in HIJMS Nagato.(HIJMS長門の提督へ礼砲)」と記録されており、実際には軽巡洋艦ディスパッチに追跡されていたようである。東京湾では関東大震災朝鮮人虐殺事件で殺害された人々の遺体が[注 4]、停泊中の長門の周辺にも流れてきたという[30]。救援物資輸送後の連合艦隊各艦は、被災者の疎開任務に従事した[30]。, 1924年(大正13年)には、裕仁皇太子(後の昭和天皇)の樺太行啓に際し乗艦となった[31]。1927年(昭和2年)8月24日、島根県美保関沖で行われた夜間演習で軽巡神通と駆逐艦蕨・軽巡那珂と駆逐艦葦の衝突事故が起きた(美保関事件)。加藤寛治連合艦隊司令長官は長門に座乗して甲軍(長門、陸奥、日向、伊勢)等を指揮しており、これを乙軍(第五戦隊〈加古、古鷹、神通、那珂〉、第二水雷戦隊〈軽巡夕張、麾下駆逐隊〉)が襲撃するという想定の演習だった。, 長門、陸奥は日本海軍の象徴として広く認識されていたが、時代の変化に合わせた小規模な改装も漸次実施された。先述した屈曲煙突への改造後も、水上偵察機の搭載や主砲塔の測距儀を換装するなどの改装を実施している。1932年(昭和7年)から1933年(昭和8年)にかけては8cm高角砲を12.7cm連装高角砲に換装のうえ高射装置と毘式四十粍機銃を設置、水偵発艦用のカタパルトが搭載されたほか、前檣は測的所や指揮所を増設したことから探照灯を煙突周辺に新設した探照灯台へ移した[32]。, 1934年(昭和9年)から1936年(昭和11年)の間陸奥と共に大規模改装を行い、ボイラーの換装と装甲の追加、主砲塔の改造や魚雷発射管の撤去などが実施された[33]。外見上は煙突がボイラーの換装に伴い太い一本の物に替わった他、前檣および後部指揮所の形状も大きく変化した。大西新蔵(長門艦長)は、大規模改装後の長門型戦艦は優男、大和型戦艦は獰猛と表現している[34]。近江従兵長の回想では、艦橋にエレベーターがあったという[35]。そして、両舷にバルジを設け、艦尾も延長し、全体的に重厚となり、防御能力が向上した。反面、タービンが換装されず出力が新造時と大差なかったため、速力は25ノットに低下した。大西艦長は、1941年5月29日の公試において82000馬力で24.1ノットを発揮したと述べている[36]。ただし、レイテ沖海戦ではカタログスペックを上回るスピードで敵機から逃げているので、元々機関部の強度・耐熱性の余裕を大きく取っていたようである。長門はその後も航空設備の改修や毘式四十粍機銃の撤去、25mm機銃の増設といった追加工事を受けた[37]。, 1937年(昭和12年)8月21日、長門は伊1、伊2、伊3、伊4、伊5、伊6、戦艦陸奥、榛名、霧島、軽巡洋艦五十鈴と共に多度津港を出港し、長江河口沿岸で23日まで作戦行動を行う。, 1938年(昭和13年)11月1日附で、福留繁大佐(当時、支那方面艦隊参謀長)は長門艦長に任命される[38]。福留は航海長経験こそあるが艦長経験がなく、前任の長門艦長高木武雄大佐から細々と申し継ぎを受けたという[39]。 ’戦の重要な戦いに、主力空母の一隻として参加しました。え?なに、ミッドウェー?なにそれ、美味しいの?. 史上初めて41センチ砲を搭載する戦艦として建造され、竣工時世界最大・最速を誇った。また、連合艦隊旗艦を最も長期にわたり勤め、日本海軍の象徴として長く国民に親しまれた 。 長門(ながと)は、旧長門国を名前の由来に持つ日本海軍の戦艦 。 長門型戦艦の1番艦である 。. 戦艦少女rの蒼龍の評価と建造レシピ. 佐藤太郎『戦艦武蔵』河出書房新社、1975年。 細谷四郎『戦艦武蔵戦闘航海記』八重岳書房、1988年。 isbn 4896461142。 塚田義明『戦艦武蔵の最後 海軍特別年少兵の見た太平洋海戦』光人社nf文庫、2001年。 第1空母群は補給のため後方におり、第3群が最も北側、第2群がサンベルナルジノ海峡東90km、第4群がサマール島南端に配置されていた。武蔵をはじめ栗田艦隊を襲撃したのは、第2群、第3群、第4群であった。, 戦闘状況を伝える主な一次資料として貴重な戦闘詳報であるが、レイテ沖海戦における「軍艦武蔵戦闘詳報」には疑問を指摘する声がある。帝国海軍技術大尉だった内藤初穂によると『世界の艦船 No.512』「大東亜戦争における旧海軍の『戦闘詳報』」において、武蔵の戦闘記録を栗田艦隊各艦戦闘詳報やアメリカ軍の記録と照合した結果、疑わしい点が多々あると指摘している[88]。沈没位置は駆逐艦の清霜が記録した「東経122度41.5分、北緯12度48分」[89]とずれており、主砲発射時期も生存者や他艦の記録と異なり[90]、さらに栗田艦隊各艦の空襲記録(計5)とは開始時間と回数のそれぞれが違う。たとえば、武蔵は13時15分の第五次空襲で「大和と長門に敵機集中攻撃」としているが、長門では同時刻空襲を第三次空襲と記録した上で、発砲したのは13時37分、発砲停止は14時11分である[91]。内藤は武蔵の記録は「創作戦闘詳報」に近いと評し、「今のうちにしかるべき証言者を得て、しかるべき注記を原史料に貼付しておかなければならない」としている[92]。, 『戦艦武蔵建造記録』でも、栗田艦隊各艦の報告と武蔵の報告が一致しないことを指摘し、戦史叢書を元に戦闘記録をまとめている[93]。武蔵の戦闘詳報があいまいとなった最大の理由は、第一艦橋への直撃弾で航海部と信号部が全滅し、彼らが記載していた戦闘記録や航跡図、信号記録が消失したためである。第一艦橋全滅後に信号部の先任となった細谷四郎は、武蔵の高級将校が早々に内地に戻ったために、戦闘詳報に下士官兵の証言を取り入れなかった為と述べている[94]。, なお、武蔵の戦闘詳報の「令達報告等」の項目には「亡失に付き誤あるやもしれず」の注がつけられている[95]。, 午前6時32分、武蔵は距離40kmに敵味方不明飛行機を発見した[96]。午前8時20分、栗田艦隊は第38任務部隊索敵隊第2群(カボット、イントレピッド)索敵機に発見された。イントレピッドの爆撃隊モート・エスリック中佐は、「戦艦4隻、重巡洋艦8隻、駆逐艦13隻」と報告する[97]。「ブル・ハルゼー」(雄牛、猛牛の意)の異名をもつ積極的な性格のハルゼー大将は即座に攻撃命令を下した。このアメリカ軍の動きに対し、日本軍は第六基地航空部隊(福留繁司令官)が第38任務部隊第3群に零戦111機(爆弾装備機含む)、紫電一一型11機、彗星12機、九九式艦爆38機、天山8機という規模の攻撃隊を送り込んだ[98]。この攻撃隊はアメリカ軍の的確な迎撃により壊滅し、空母に対する戦果は軽空母プリンストンの撃沈のみだった。エセックス隊だけでF6F戦闘機1機の損失と引き換えに海軍の零戦27機、一式陸上攻撃機2機、夜間戦闘機月光1機、天山2機、九九艦爆4機、銀河1機、彗星1機、陸軍の一式戦3機、三式戦1機撃墜を記録している[99]。, 午前9時30分、3機の哨戒機型B-24爆撃機「PB4Y-1」が栗田艦隊に接触し[100]、武蔵の見張員が発見した[101]。武蔵の左舷高角砲、戦艦金剛、重巡洋艦筑摩が発砲した。同時に、栗田中将は武蔵に通信妨害電波の発信を命じた[102]。10時頃、大和と軽巡洋艦の能代が約100kmにアメリカ軍機40機を探知する。10時26分、第1次攻撃隊(イントレピッド、カボット)45機(F6Fヘルキャット戦闘機21機、カーチスSB2Cヘルダイバー急降下爆撃機12機、TBFアヴェンジャー雷撃機9機、誘導機ビル・エリス中佐)が攻撃を開始する[103]。この時点で猪口は砲術長の主砲発射要請を拒否して主砲発砲を許さず、副砲で迎撃させた[104]。予定されていた海軍基地航空隊の援護が天候不良という理由で取りやめとなったことに武蔵の猪口艦長は嘆いていたという[105]。, 第一次空襲では小型爆弾1発が武蔵の一番主砲塔天蓋に命中し、室内灯が笠ごと落ちた[106]。6機の雷撃機による攻撃では、魚雷2本が艦底を通過[107](この2本は命中したが不発だったという証言もある[108])、1本が武蔵の右舷中央に命中、第7、第11罐室に漏水が発生したが[109]、これは機関科兵が罐の熱気で大火傷を負いつつ行った応急作業で食い止めた[110]。武蔵はバルジへの浸水で右舷に5.5度傾斜したが、左舷への注水でバランスを取り戻した。この被雷衝撃で艦橋トップの九八式方位盤照準装置改一の台座が歪んで旋回不能となり、全主砲塔の統一射撃が不可能となったとされる[111]。その後はそれぞれの主砲塔に設置してある照準システム及び後部艦橋の予備システムで射撃を続行した[111]。ただし、主砲方位盤にもともと対空射撃の機能がなかった可能性がある[111]。なお「被弾ではなく主砲斉射の衝撃で方位盤が故障した」と証言する乗員もいるが[112]、公式記録によれば第一次空襲に於ける主砲の発砲は無い。また、主砲発射の衝撃に堪える方位盤が魚雷1本の命中で故障するなどありえず、高速急転舵の連続による艦体震動が原因と考える乗員もいる[113]。さらにイントレピッド攻撃隊のビル・バン・アントワープ雷撃隊隊長は、武蔵艦首に魚雷を命中させたと証言している[114]。武蔵は艦首に至近弾と記録した[93]。, 11時15分、武蔵は『雷撃機五機の挟撃を受け4本を避けたるも1本右舷後部に命中、右12、14区に浸水した。激動により主砲方位盤旋回不能となりたる他故障なし。目下詳細調査中』と艦隊司令部に報告する[115]。11時36分には存在しない米潜水艦からの雷撃を回避し[116]、11時57分に『出し得る最大速力26ノット』と報告した[117]。, 12時6分、空母イントレピッドからの第2次攻撃隊33機(戦闘機12、爆撃機12、雷撃機9)が攻撃を開始した[118]。アメリカ軍機は栗田艦隊外周の駆逐艦、巡洋艦の対空砲火をくぐりぬけ武蔵に殺到していった。殺到の原因についてレイテ沖海戦を主軸にした書物などでは、リンガ泊地に於いて武蔵だけが塗装を塗りなおしたため、一番目立っていたのも要因とされることがある[119]。46cm主砲三式弾9発発射。事前ブザーがなかったために多くの甲板員が爆風を受けたという[120]。被害は、左舷に魚雷3本、艦首と艦中央部に爆弾2発というものだった[121]。僚艦も武蔵の被害を目撃しており、大和は12時11分、武蔵に複数の魚雷が命中した時に発生する水柱を認めている[122]。その武蔵では指揮装置の故障で高角砲の一斉射撃ができなくなり、各砲個別照準となって命中率が低下した[123]。左舷中央部に命中した爆弾は、甲板2層を貫通して中甲板兵員室で炸裂した[93]。爆風が通気孔を通じてタービン室に突入し、蒸気管が破損したために内側の1つの機械室内が高温となって使用不能となる[124]。武蔵は3軸運転を余儀なくされ、最大速力は22ノットに落ちた[125]。一番、二番主砲は魚雷命中による弾薬庫の直接の被害は無かったが、庫内温度が上昇し、弾薬庫に注水作業をしたため使用不能となったとする文献もある。ただし、武蔵の一番砲塔中央砲で三式弾の事故が発生して射撃不能になったものの[126]、二番主砲塔、三番主砲塔は空襲が終わるまで射撃を続けている。また至近弾による弾片やアメリカ軍機の機銃掃射が、甲板上の機銃兵員達を殺傷した。武蔵の甲板に備え付けられている25mm対空機銃のほとんどは外気に晒されており、46cm主砲発砲の爆風から対空兵器と砲員を保護するシールドも、アメリカ軍のF6Fヘルキャットが6門装備するブローニング12.7mm重機関銃の掃射やロケット弾攻撃の前では無力だった[127]。武蔵の乗組員の中にはアメリカ軍が反跳爆撃(スキップボミング)を行ったとする者もいる[128]。13時13分、武蔵は司令部に以下の報告を行う[129]。, 第二次空襲と第三次空襲の間に1時間ほど小休止があったため、武蔵では猪口艦長の指示により戦闘配食が配られた[130]。13時30分、ミッチャー中将直率第3群の空母エセックス 、レキシントン (CV-16)を発進した第3次攻撃隊83機[131]が栗田艦隊上空に到達した。エセックス隊が第一部隊輪形陣(大和、武蔵、長門 )、レキシントン隊が第二部隊輪形陣(金剛、榛名)を攻撃した。アメリカ軍機が撤退するまで武蔵は魚雷5本、爆弾4発、至近弾2発を受けた。武蔵は浸水と傾斜復元のための注水で艦首が水面近くまで沈み、速力が低下した[132]。大和を中心とする第一部隊から落伍し、金剛を中心とした第二部隊に追いつかれていた。なお第二艦橋勤務の細谷は、武蔵が初めて主砲を発射した時刻を13時57分頃としている[133]。第二部隊の軽巡洋艦矢矧も13時54分に武蔵発砲[134]、長門も14時06分に「武蔵砲撃始む」と記録している[135]。, 14時15分、第4群の空母フランクリンから発進した第4次攻撃隊65機が来襲し[131]、大和に爆弾1発が命中した。一連の攻撃でフランクリン攻撃隊(ジョー・キービー中佐)が武蔵に爆弾4発、魚雷1-3本命中、軽巡洋艦1隻撃沈を主張[136]、14時45分、重巡洋艦利根の黛治夫艦長は鈴木義尾中将(第二部隊指揮官)に『武蔵に近寄る雷撃機を射つ為近寄られては如何』と意見具申する[137]。20分後に『利根は暫く武蔵の北方に在りて敵機の来襲に備えよ』との返信があったが[137]、これは「利根単艦で武蔵を護衛せよ」という意味であり、黛は鈴木を罵っている[138]。それでも利根は武蔵に寄り添い、駆逐艦の清霜と共に護衛を開始した。14時50分、武蔵は大和に対し以下の報告を送った[139]。, 14時53分、栗田中将は『武蔵被雷1、計5、戦闘力発揮に支障あり。武蔵は清霜を附し要すれば「コロン島」経由、馬公市へ向かえ』と命じた[140]。栗田中将が武蔵に撤退命令を出す中、第4群空母「エンタープライズ」から発進した攻撃隊が栗田艦隊上空に到達した。武蔵もこれを探知し、14時50分にアメリカ軍機70接近中と報じ[141]、さらに14時54分、旗流信号で『飛行機20機発見』を知らせた[142]。5分後の14時59分、第2群空母の第3波攻撃隊30機(戦闘機15、爆撃機12、雷撃機3)が来襲した[136]。この頃、シブヤン島やボアク島では、地元猟師達が山の中腹から「島のような巨大戦艦」とアメリカ軍機の激しい戦闘を観戦している[143]。, エンタープライズ隊は栗田艦隊が変針し、戦艦武蔵、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻が西に向かって分離する光景を見た[144]。ロケット弾を装備したヘルキャットが利根と清霜を狙い、急降下爆撃機と雷撃機が武蔵を狙った[145]。アメリカ軍機から観察すると武蔵は油を引いているだけで火災も起きておらず、艦体も水平だった[146]。だが、武蔵は注水と被雷により大量の海水を飲み込んでおり、動きは鈍くなっていた。武蔵は回避行動もままならず、『武蔵被害累加せる如きも詳細不明』というほどの損害を受ける[147]。特に前部艦橋防空指揮所(艦橋最上部)に命中した爆弾は、防空指揮所甲板、第一艦橋、作戦室甲板を貫通して爆発[148]。爆風が第一艦橋へ逆流し、武蔵幹部達を殺傷した[149]。防空指揮所では、高射長、測的長を含む13名が戦死、猪口艦長を含む11名が負傷する[150]。作戦室では前日救助された摩耶副長と軍医を含む5名が戦死、2名が負傷した。そして第一艦橋では、航海長を含む39名が戦死、8名が負傷[151]。加藤副長が指揮を継承し、三浦徳四郎通信長が臨時の航海長となった[152]。エンタープライズ攻撃隊(戦闘機12、艦爆9、艦攻12)は戦闘レポートで武蔵に1,000ポンド爆弾11発、魚雷8本命中、重巡洋艦(利根)に爆弾命中、駆逐艦2隻撃破または撃沈を主張する[153]。アメリカ軍機は艦首が沈下し、大火災を起こして完全に停止した武蔵を目撃している[154]。また利根には爆弾2発が命中(250kg爆弾1発不発)、小火災が発生した[155]。清霜にも一番発射管に小型爆弾1発が命中し、最大発揮可能速力が24ノットに低下した。, 最終的に武蔵は爆弾10発以上被弾、魚雷10本以上を被雷した。「軍艦武蔵戦闘詳報」では魚雷命中20本被雷、爆弾17発命中、至近弾18発と結論づけている[156]。生存者が戦後に結成した「武蔵戦友会」は、右舷に5本、左舷に20本以上、合計33本と推定した[157]。艦の前部に著しい浸水を見た武蔵は前後の傾斜差が8メートルを超え、前部主砲の一番低い箇所は波に洗われるほどになった[149]。このため必死の浸水防止の対策が採られた。大和からは、左に15度傾斜した武蔵の姿が目撃されている[158]。武蔵は15時30分に舵取機電源切断による『我舵故障』を報告し、長門が確認した[159]。第七号発電機タービンを担当していた玉沢兵曹は、被害の累加と共に次々と発電機が使用不能になり、最後の第七発電機も第五次空襲で停止・操舵不能になったと証言している[160]。それでも約30分後には直接操舵が可能となった[161]。武蔵は復旧作業をおこないながら重巡洋艦利根、駆逐艦島風、清霜、浜風に伴われて栗田艦隊から分離し、コロン湾を目指した[162]。武蔵は大損害をうけながらも僅かながら戦闘力を維持しており、16時55分にはアメリカ軍機を撃墜したという[163]。, 宇垣纏第一戦隊司令官は著作「戦藻録」に『本反転に於いて麾下の片腕たる武蔵の傍を過ぐ。損傷の姿いたましき限りなり。凡ての注水可能部は満水し終り、左舷に傾斜10度位、御紋章は表し居るも艦首突込み、砲塔前の上甲板最低線漸く水上に在り。慰めの言葉も適当なるもの即座に出でぬなり』と述べている[164]。宇垣は16時24分『全力を尽して保全に努めよ』[165]、17時5分『自力又は曳航にて遠距離移動不能なる場合、一時附近島陰適当なる深所に曳航艦首をのし揚げ応急対策を講ずることを研究しおけ』と命じた[163]。, 栗田中将は「第一遊撃部隊戦闘詳報」にて『即ち敵機の空襲は逐次其の頻度と来襲機数とを増大するに反し、ラモン及レガスピー方面敵機動部隊に対する我が航空攻撃の成果未だ見るべきものなく。他方我が機動部隊本隊の牽制攻撃其の実効なき等、各部隊の協同は結実するに至らず。為に第一遊撃部隊の孤立奮戦となり徒らに被害累増すると共に、現在の儘東進せば日没前シブヤン海東方の狭小海域に於いて敵機の攻撃を受くる惧れあり(以下略)』と述べている[166]。宇垣も『即ち武蔵は大和を救い、戦隊のみならず艦隊全般を自らの犠牲において掩護救出せるものといわざるべからず」と記した[167]。武蔵は各艦隊、航空部隊の連携不徹底から結果として猪口艦長の遺書にあるように「栗田艦隊被害担当艦」となり、致命傷を負ったのである[168]。, すでに電気を使用する通信機は使えなかった。18時、宇垣中将は大和の探照灯を用いて『自力航行可能なりや』と問い合わせる[170]。すると15分後に武蔵から『右舷内軸のみ運転可能、操舵可能』という回答があった[170]。この時、武蔵側で応答した細谷は『我れ機械6ノット可能なるも、浸水傾斜を早め前後進不能』だったと回想している[171]。宇垣は翌朝まで持ちこたえられるかもしれないと見ていた[172]。18時26分、栗田中将は『浜風は武蔵艦長の命を受け同艦の警戒に当れ。島風の武蔵警戒任務を解く』と伝える[173]。18時30分、駆逐艦島風が武蔵左舷に横付けし、乗艦していた重巡洋艦摩耶の乗組員607名を収容した[174]。だが摩耶士官4名、下士官兵41名が武蔵の復旧作業に従事するため残留している[175]。島風は武蔵から離れ、利根も黛艦長の再三の『此処に居るも如何とも為しがたきに附決戦に参加し得る様御願いす』という要請によって栗田艦隊に復帰した[176]。この時、利根は猪口艦長に対し『ザイドリッツの戦例に鑑み艦首浮力の保持に努められよ』と信号を送っている[177]。ドイツの巡洋戦艦ザイドリッツは第一次世界大戦のユトランド沖海戦で被雷し、艦首が沈降したが後進して港に戻り座礁した。黛艦長は武蔵がこの戦訓をなぞることで沈没を免れることを望んだのである[178]。, 一方、武蔵では防水作業、復旧作業が続いていた。艦乗組員の複数の手記と証言が残っているが、これほどの被害を受けながら火災の方はすぐに鎮火したらしく、戦闘終了後に火災が継続している描写はない。左舷への傾斜を復旧させるため、左舷主錨の海中投棄が行われ、機銃の残骸や接舷用の器具(防舷材)、負傷者や遺体といった重量物を右舷に移す作業も行われた[179]。これらは傾斜が酷くなったときに、一斉に甲板上を右舷から左舷に滑落し、巻き込まれ死亡した乗員が少なからずいた[180]。艦内での排水作業では、角材がマッチ棒のように折れ、鉄板がベニヤ板のようにしなる……と水圧との戦いの凄まじさが伝えられている。浸水した機械室も排水作業が試みられたが、浸水は減るどころか増える一方だった[181]。乗組員の間では、「不沈艦」と信じてきた武蔵が沈没するかもしれないという不安が広がった[182]。, 傾斜復旧のための注水作業(注排水区画が満水のため缶室、機械室、居住区に注水)が行われ、沈没の直前には機械室、及び右舷の缶室(ボイラー室)6個のうち、外側の3つについて加藤副長より注水作業の命令があった[183]。缶室に関しては、少なくとも1つが機関科兵[184]によって実際に艦底のバルブ(注水弁)が開かれた。しかし、理由は不明だが一滴の水も出なかったという[185]。大坪は機械室の注水弁を開き、注水作業に成功した[186]。ただし、満水になるまでかなりの時間が必要なので、どの程度の効果があったか不明である。, 19時5分、第二艦橋に猪口艦長、加藤副長、越野砲術長、工藤内務長、中村機関長、三浦通信長、佐野芳郎少尉(艦長附伝令)、細谷(信号部先任)、井上(見張士)が集まった[187]。猪口は加藤に遺書と形見のシャープペンシルを渡すと[188]、第二艦橋下の海図室に降りていった[189]。19時8分、浜風は武蔵から『至急武蔵の左舷に横付けせよ』という信号を受取る[173]。清霜も『横付けせよ』という手旗信号を受取る[190]。だが巨艦の沈没に巻き込まれることを恐れた両艦は100mまで近づくのが限度だった[191]。, 19時15分頃、武蔵は左傾斜十二度となったため、加藤副長より"総員上甲板"が発令され、乗組員は後部甲板に集合した[192]。半壊したマストから軍艦旗が降下されて間もなく、武蔵は急激に傾斜を増した。総員退去命令が発せられ、乗組員は脱出をはじめる。たまたま艦橋をふりかえった数名が、艦橋旗甲板で脱出者を見送る猪口艦長を目撃した[193]。19時35-40分、武蔵は完全に転覆[194]、水中に入った煙突から炎と白煙があがり、しばらく右舷艦底を上にして浮いていたが[195]、やがて水中爆発音2回があって艦首から沈没した[196]。この爆発は缶室のボイラーが水蒸気爆発を起こした、主砲弾薬庫の弾薬が転覆による衝撃で誘爆した等、諸説ある[22]。建造期間1591日に対し、武蔵の艦齢は821日だった[197]。, 海に飛び込んだ乗組員は武蔵沈没時の大渦に巻き込まれたり、水中爆発により圧死したりした者もいたといわれるが、随伴していた駆逐艦の清霜、浜風に約1350名が救助された。清霜は25日午前1時まで救助作業を行ったと記録している[194]。武蔵の沈没に伴う戦死者は全乗組員2399名中、猪口敏平艦長以下1023名、生存者は1376名、長門派遣下士官兵7名[198]。さらに沈没までの対空戦闘で前日米潜水艦の雷撃により沈没し、救助されて武蔵に移乗していた摩耶の乗員も117名が犠牲になっている[175]。戦闘詳報には『当時便乗しおりたる摩耶乗員はそれぞれ固有戦闘配置に応じ武蔵の戦闘力を増強する配備に就き極めて勇敢に奮闘努力し其の功績顕著なるものありしことを特筆す』と記された[199]。, 駆逐艦磯風の水雷長が撮影した、艦前方が半ば海面下に没した写真は、武蔵最後の姿として有名である。, 武蔵はアメリカ海軍機の攻撃により、推定雷撃20本、爆弾17発、至近弾20発以上という猛攻撃を受けたが、艦前部を主に両舷の浸水がほぼ均等で、当初左右方向への傾斜が僅かまたは復元可能であったこと[200]、アメリカ軍の攻撃に時間差があったため艦体の沈降に伴って被雷個所がずれていったこと[201]等が影響し、被弾数に比べて長時間交戦できたものと推測される。ちなみに、アメリカ軍はこの戦闘を教訓として1945年(昭和20年)4月の天一号作戦時の大和への攻撃を左舷に集中させたとされるが、アメリカ軍側にそれを実証する資料はない。, 猪口艦長は、「機銃はもう少し威力を大にせねばと思う。命中したものがあったにもかかわらず、なかなか落ちざりき。…申し訳なきは対空射撃の威力をじゅうぶん発揮し得ざりし事。」という言葉を副長に託した手帳に残した。逆説的な意味で、「武蔵は航空機の前では無力だった」とする見方もある[202]。武蔵と同じく栗田艦隊に所属し、10月24日午前中のアメリカ軍機攻撃で被雷し落伍した重巡洋艦妙高では、このような所見を述べている。「現有対空射撃兵器を以てしては、之を如何ほど増強し如何に教育訓練に努力するも、その到達する所の射撃実力には限界あり。もっとも現有の対空射撃兵器の性能は主砲、高角砲、機銃、共に極めて貧弱にして現下の複雑困難にして熾烈なる対空戦闘には通じるものに非ず」[203]。武蔵の沈没は、姉妹艦大和の将兵にも影響を与えた[204]。宇垣はこの時のことを戦藻録に『嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり』と記した[205]。, 大和型戦艦は日本軍航空隊が制空権を掌握した上で、その掩護下で艦隊決戦を挑むために開発された戦艦である[206]。味方航空機の支援が1機もなく、逆に日本軍航空隊が壊滅した状態で100機以上の敵航空機から集中攻撃される事態は設計者達の予想を超えていた[207]。大和型戦艦設計者の一人である牧野茂は絶対的不沈艦などありえないと前置きした上で、「味方に航空兵力が存在する戦闘で相対的不沈艦とすることは望ましく、大和型戦艦はおおむねその成果を達成した」と述べている[208]が、それが当初予定されていたそうした戦術に結びつかなかった事が、丸裸で航空機の標的に晒された現実に出ているともいえる。, 武蔵最後の戦闘記録は第一艦橋が全滅したこともあって不明な点が多く、現在でも謎が多い。副長の加藤憲吉のメモによれば魚雷命中、右舷に8本、左舷に15本、爆弾の直撃17発、至近弾18発である[209]。副長付き信号兵の細谷四郎によれば、右舷に5本、左舷25本である[209]。右舷に5本の根拠について細谷は、武蔵の転覆時に横倒しで水平となった右舷側面水線下を歩き、そこに魚雷による破孔5つを確認したからだとしている[210]。一方アメリカ軍は、爆弾命中44発、ロケット弾命中9発、魚雷の命中25本、総投下数161発中命中78発と記録した。, 武蔵の沈没の直接原因は、多数の魚雷命中による大浸水である[211]。特に1番主砲塔より前の非防御区画は、魚雷が4-5本命中したために全部浸水してしまった。一方後部区画には魚雷の命中は右舷後部に5本のみと比較的少なく、浸水は殆どなかったようである。またバイタルパート内部においては、左舷外側主機室や第12缶室への浸水・水没が確認されている[212]。外側右舷外側缶室の1室は魚雷攻撃により隔壁からの漏水が発生し、防水処置をしたものの、その後の魚雷命中の衝撃で、打ち込んだ楔などが全て吹き飛ぶなどしたために、最終的に乗員は腰まで海水に漬かった[212]。もう1室についても緩徐な浸水に見舞われたが、隣室への防水扉を駆動する電気回路が故障したため、彼らは脱出不能となった。天井に穴をあける作業が行われたが、非常に厚い装甲板(200ミリ)だったため全員溺死した。内側の6室の缶室(1、2、5、6、9)には浸水はなかった[212]。右側外側の缶室は別記したように戦闘終了後に傾斜復旧のため、注水命令が下令されている。4室ある機械室(タービン室)も最終的に3室まで浸水が確認されている。甲板二層にわたる巨大な空間が満水になることで、艦の浮力とバランスが失われた[211]。4列ある機関区の外側の区画も、度重なる同一部位への魚雷命中により、バルジや水面下装甲板を破壊され大浸水をきたした。隔壁の破壊を逃れた区画も、船体の沈下に伴い通気孔などからの緩徐な浸水に見舞われた[213]。アメリカ軍は、主要防御区画を守る20度傾斜410ミリVH甲鈑と下端のNVNC甲鈑との接合部分に構造的問題があり、主要防御区画への浸水遮蔽が不十分だったと指摘している[211]。一方で魚雷1本の被雷で深刻なダメージを受けた巡洋艦[214]に比べ、戦艦が極めてタフであり、容易に撃破できぬ艦種であることも明らかにした[215]。「戦艦武蔵建造記録」では「よくぞここまで耐えた」と記している[216]。, 大和型戦艦は予備浮力が多く確保され、その比は長門型戦艦の1.5倍あり、同時期の他国の戦艦と比較しても浸水に対しては余裕を持った設計になっている。「7万トンを超える巨艦にしては小型軽量設計」が特徴の大和型だが、この小型化が更に浮力余裕を持たせられなかったとも言われる[217]。『戦艦武蔵建造記録』では、沈没時の浸水35,000トン、浮力は22,450トンと推定し、沈没原因を復元力の喪失と結論づけている[216]。, しかし、これだけの猛攻に耐えた武蔵だが、一方では、電気溶接を採用しなかったことが弱点になっていたとも考えられている。日本海軍では第四艦隊事件で電気溶接が船体の脆弱化を招いたと責任転嫁的に結論づけられたため、その後、船体建造にあたって最新技術である電気溶接の採用を制限し、従来どおりのリベットによる接合に逆戻りするということが起こっていた。2016年放送のNHKスペシャル「戦艦武蔵の最期 ~映像解析 知られざる“真実”~」では、三菱長崎造船所が提供した武蔵の資料を分析したところ、電気溶接でなく、旧来のリベット打ちによる装甲版の繋ぎ止めが被雷時の衝撃によって抜け落ちるか、もしくは折れる等の破損によって装甲板の繋ぎ目部分が外れ、そこから大量の海水浸入を招いたとする説を取り上げている[218]。, これは後の大和や、一ヶ月後の空母に改造された姉妹艦「信濃」にも、被雷時に同じような形で作用し、沈む要因を造っている(2019年放送のNHKBS1スペシャル『幻の巨大空母“信濃”~乗組員が語る 大和型“不沈艦”の悲劇~』より)。旧来工法に頼りきりだった日本の建艦技術力限界も沈没要因の一つ[219]であり、頑強な戦艦といえど、航空機の継続的な攻撃の前に屈することは、皮肉にも日本海軍が真珠湾攻撃によるアメリカの戦艦であるアリゾナ、オクラホマ、ネヴァダ、ウェストバージニアと、2日後のマレー沖海戦でイギリスの戦艦であるプリンス・オブ・ウェールズとレパルスという他国戦艦群を沈めたことから始まり、それは武蔵の半月後のドイツの戦艦であるティルピッツ、更に半年後の大和の最期でも証明された形になった。, 10月25日、駆逐艦清霜と浜風に乗った武蔵の生存者は、マニラ海軍病院分院に収容された100名をのぞき[220]、フィリピンのコレヒドール島に上陸した[221]。彼らは加藤憲吉副長の名字をとって「加藤部隊」と呼ばれた[222]。負傷者数名が重巡妙高に乗艦してシンガポールに向かったが、彼らの運命は不明である[223]。コレヒドール島の生存者達は食糧、医薬品も満足に与えられず、厳しい環境に置かれていた[224]。その最中、加藤副長や武蔵幹部将校が、残務処理手続きとして司令部に向かったまま日本本土に帰ったとの連絡があり[225]、指揮官達を失った「加藤部隊」では暴動寸前の事態になったという[226]。一方で、加藤副長は南西方面艦隊司令部の有馬馨少将(武蔵初代艦長)と会議を行い、輸送船のさんとす丸(140m、8500トン)で420名の日本帰国を決定したと証言する士官もいる[227]。, 11月25日午前1時、さんとす丸は第38号哨戒艇、第102号哨戒艇、第33号駆潜艇に護衛されてバシー海峡を通過中、アメリカの潜水艦アトゥル(AGSS-403)の魚雷攻撃を受けた。この攻撃で魚雷2本が命中し、大爆発を起こしたさんとす丸は船体が切断して沈没した[228]。第38号哨戒艇も沈没したため、救出されるまで時間がかかった。結果、沈没と長い漂流によって武蔵の生存者420名中300名が戦死した[229]。救助された120名は台湾の高雄警備隊に配属されて終戦をむかえた[230]。12月6日、180-200名が空母隼鷹で日本へ向かったが、隼鷹は12月9日にアメリカの潜水艦シーデビルの雷撃で被雷し武蔵の生存者を慌てさせた[231]。さらに、佐世保から横須賀への移動中や、横須賀海兵団での隔離生活でも監視の番兵がついていたという[232]。この他にも傷病者10名が病院船氷川丸によって日本に帰国した[233]。, だが、約1000名の武蔵の生存者は日本に戻れずクラークフィールド航空基地作業隊に編入された。彼らはそのままフィリピン守備隊に残され、陸戦隊としてマニラ市街戦に参加させられたりしたが、その多くは戦死した[234]。その他の戦線に戦局悪化の口封じに駆り出された兵士も少なくなかった。生還者は56名だったとされる[235]。, エンタープライズの攻撃隊に戦闘機パイロットとして加わり武蔵を攻撃したダニエル・T・スミスは戦後少将に進級し、1968年から1970年にかけて在日米海軍司令官を務めた。横須賀に赴任中、細谷四郎ら武蔵の生存者と交流を深めている[236]。, 1977年(昭和52年)10月24日、生存者で結成された「軍艦武藏会」は慰霊祭を靖国神社でおこない[237]、さらに239名が「戦艦武蔵比島方面慰霊団」としてフィリピンに出発した[238]。重巡洋艦摩耶主計長として武蔵に乗艦し、最後の戦闘を体験した永末英一衆議院議員(民社党委員長)によれば、赤坂離宮(迎賓館)で催された招宴で昭和天皇に武蔵慰霊祭の事を告げると、天皇は1943年(昭和18年)に乗艦したことを懐かしんだという[239]。, 沈没地点とされる場所を調査しても武蔵が発見されないことから、「沈んだ時点でも武蔵の艦腹には、なお未浸水の頑丈な防水区画が沢山あって、それらが艦に浮力を与えて海底まで沈下せず、艦内に閉じ込められた英霊と共に、シブヤン海の8-12ノットもある強い潮流に乗って海中を彷徨い続けているのでは」という噂話も存在した[240]。武蔵自体の航海記録は、艦橋に爆弾が直撃して第一艦橋に火炎が吹き込んだために、失われている[244]。, 2015年3月2日、マイクロソフト社の共同創業者で、第二次大戦中の軍用機コレクターでもあるポール・アレンの調査チームが武蔵をシブヤン海の水深1000mの地点で発見し、翌日に公式発表した[245]。旧日本海軍史研究家で、大和ミュージアムの戸高一成館長は「艦首の菊花紋章や船を係留するための鎖やロープを通す穴の形状などから、武蔵の艦首と考えてほぼ間違いない」と話した[246]。また、日米複数の専門家が武蔵だと断定した[247]。調査には戦艦フッドの探索にも使用されたアレン私有の海洋調査船オクトパス(全長441フィート)が使用された。武蔵の船体撮影は海底8843フィートまで潜水できる遠隔操作の探査機により行われた。調査は資料収集や海底の地形調査から始められ、実際の船体発見までは8年の年月が必要であった。シブヤン海の地形は複雑であり、いくつかの海底火山もあったが、それらの山頂部は調査区域が除外された。オクトパスからのマルチビーム海底スキャンによって、沈没地点の候補地は狭く絞られた。2015年2月より実際の潜水探査が開始されたが、わずか3回目の探査で武蔵の船体は発見された。発見時には都合によりアレンは現場には居合わせなかった。特定された沈没地点はシブヤン島の真北側のシブヤン海中央部で、清霜が記録した沈没地点のやや西側であった[244]。, アレンは3月13日(アメリカ時間12日)に探査機の映像のインターネット生中継を行った。この映像から艦体の各部が海底に散在している状況が判明し、調査チームは沈没時に火薬庫の爆発が起こったことなどを分析した[248]。また、観測用水上機射出用のカタパルトのマニュアルと思われる日本語の文書も発見された[249]。船体発見が報じられたことを受け、猪口艦長への墓参りが急増したとも伝えられている[250]。, 武蔵は沈没時に爆発を起こした為に、船体は大きな破損を受けた[244]。船体は1番主砲の後方で切断され、大きく2分割した状態で沈んでおり[244]、両者の距離は100m程度離れている。大和の沈没時と同様に機関部に流れ込んだ多量の海水による機関内水蒸気爆発に加え、その爆発が火薬庫にまで及び、その結果艦体が分断され、構造物が本体から四散する程の大破壊が及んだと推察される。, 艦橋と船首部分の間500mには、比較的大きな船体構造物やボイラー、カタパルト、対空兵器のシールド、三式弾などが広範囲に散らばって沈んでいる[244]。副砲も1基のみ発見されているが、全体の大部分が泥に埋もれており後部のハッチや片方の測距儀などしか確認できない[244]。, アレンが公表した映像は一部に過ぎなかったが、NHKは100時間にも及ぶ動画の提供を受け、それらを三次元的に画像データとして再構成し、2016年12月4日放送のNHKスペシャル「戦艦武蔵の最期」で公開した。, 読売新聞は、歴史的記憶として貴重であり後世に残すべきとの特集コラムを掲載した[251]。また、週刊新潮と朝日新聞は引き上げにかかる費用を試算し、巨大な費用がかかる事から現実的でないとしている[252]。また、この発見を受けて自主映画製作も発表されている[253]。, 『戦艦武蔵』は2016年8月6日19:30 - 20:59にNHK BSプレミアムザ・プレミアム枠で放送されたテレビドラマ。劇中の武蔵の戦闘シーンなどはロトスコープでアニメ化された[302]。, なお、2016年9月3日 21:00 - 22:13にNHK総合において「NHKスペシャル」で73分の短縮版が放送された。, フィリピンのシブヤン海で71年ぶりに発見された巨大戦艦は今、何を語りかけるのか。戦艦武蔵をめぐって出会った遺族と元乗組員の魂の物語である。, Last reported position of the Japanese battleship Musashi in the Sibuyan Sea, Ref.C08050173900「軍艦天城愛宕高雄製造一件(製造取止め)(2)」p.

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